top of page

1974年11月10日

1978年5月
1978年8月

名古屋大学ギターマンドリンクラブの卒業生の数人が学生時代の思い出がなつかしく、もう一度演奏活動をやってみたいという気持ちからあつまり、「マンドリン音楽を楽しむ会」が発足した。

1985年1月
演奏会参加人数過去最高の84人となる。
1986年6月23日
1986年7月6日
1986年8月9日
長年団長を務められた木村氏が転勤され林哲也氏が団長になる。
1988年1月7日
1988年12月10日
1991年3月24日

1992年8月10日~8月16日訪中、

1998年
1998年12月5日
2001年11月10日
2003年9月21日
2004年9月26日
2008年8月31日

1987年7月5日

1988年8月10日~17日

1993年11月21日

1996年8月10日~16 訪豪

(イタリア語で名古屋マンドリニスト・サークルという意味
中野二郎先生の命名により、「チルコロ・マンドリニスティコ・ナゴヤ」となる。

第1回練習(大曽根幼稚園にて)

第1回定期演奏会 (中区役所ホール)

■当時を語る 牧 洋伸(第1・2回定演コンサートマスター)
創立当初は、学生時代の延長の気持ちで、マンドリン合奏を続けたい 一念だったと思います。練習場には困ってお

り、確か一年位過ぎてから、広小路の短歌会館を借りられるようになり、安定してきました。

(第30回記念定期演奏会パンフレットより)

第5回定期演奏会 (中電ホール)

■当時を語る 

帰山栄治(第4回~9回定演で常任指揮者、その後技術顧問をお願いし現在に至る)
ちょうどこのころ、マンドリン界にロシアの編曲ものが登場しつつあった。自分自身が編曲したものを含め、

指揮をするということでチルコロの指揮を引き受けることになった。幸い人数も一時60数名まで増えた事を

記憶している。年2回定期演奏会を行ったが負担だ った。レベルは今に比べて低かったと思う。チルコロは

音楽レベル(演奏レベルではない)は高い団体だと思う。もっと幅広い音楽を演奏すればよいと思うのだが

、学生時代の延長のように思う。自分たちだけで楽しむのか、音楽的使命を感じてやっているのか、合奏団の

性格をはっきり見極めて次へ進んでほしい。(第30回記念定期演奏会パンフレットより)

第10回定期演奏会 (愛知文化講堂)

■当時を語る 鶴原明夫(第10回定演から常任指揮者を務める)
帰山氏が作曲活動に専念したいということで、帰山氏からチルコロ指揮者に指名された。そして練習場である短

 歌会館に初めて行ったその日から、指揮者に就任した。家族的でとけ込みやすい雰囲気だった。団員は40人余

り。いつも練習に来ている人が30人ほどだった。団の組織は今のようにしっかりしていなかったし、ぐいぐい

 引っ張っていってくれる人もいなかったが、一人ひとりが地味に活動して、みんなでチルコロを作っているとい

う感じだった。練習量は学生とは比較にならないが、音楽的には優れた人が多くふりやすかった。 

(第30回記念定期演奏会パンフレットより)

名古屋マンドリンのつどい・第1回フェスティバルに参加。
NHKテレビ「昼のプレゼント」に出演。
NHK-FM「夕べのひととき」に出演。
デンマーク青少年ギターマンドリンオーケストラ来日交歓演奏会開催。
津島公演、津島福祉会館にて。
国際マンドリンフェスティバルに参加。ドイツマンドリンオーケストラ、ウィーンマンドリンギターアンサンブルなどと共演。

訪中、南京市延安劇場で公演。

■当時を語る 木村功一氏(初の団長職に就任、現名誉団長)事務局長をずっと矢島さんがやってきたが、それを引き継いで仕事をしていた。今の「チルコロ通信」にあたる「チルコロ告板」を定期的ではないが発行していた。中国公演の企画がもちあがり、外部との折衝の機が増えたので、チルコロの代表者として団長職を置くことにした。(第30回記念定期演奏会パンフレットより)

第25回定期演奏会 (中電ホール)

■当時を語る 山口行夫(当時コンマス)
これまで築かれていたチルコロの中に新しい風がはいればもっと活発になると思い、仲間に声をかけました。技術面でもう一ランク上を目標にしましたが、皆の努力がうまくかみ合わず、2倍にも、3倍にもなれるチルコロの力が半減してしまう......と感じたこともありました。(アマチュアの団体から一歩抜け出る為には今までより一層努力と自覚が必要だ)と私自身を振り返って反省し、強く思ったりします。(第30回記念定期演奏会パンフレットより)

訪ソ、(団長 帰山栄治氏)、ハバロフスク・イルクーツクで公演チルコロだけでなく、他の団体などからも参加者を募り、奏者だけでも約90名。どちらの演奏会場でも満員の聴衆が我々の演奏に熱心に耳を傾けてくれた。公演の他、ハバロフスクでのアムール河遊覧船上での青年交流会、ピオネールキャンプでの子どもたちとのふれ合いも意義深いものだった。数々のすばらしい思い出と共に、ハエやカにトイレ・食事に悩まされたことも忘れられない思い出である。

中京テレビ「ミュージックドリーム」に出演
それまでの「ちるころ告板」に代わり「ちるころ通信」が発行されるようになる。各部会からの連絡、行事のお知らせなどを記載し、現在も広報部会により月一回程度発行されている。
「ドニプロ」アンサンブル来日による歓迎交流会に参加。
団内発表会をミュージックサロンヤマハを借りて本格的に行った。団内発表会は部員の技術面の向上をめざし
 企画されたもので、現在も年1~2回行われている。
三重県大王崎のキャンプ場の仮設野外ステージで子供達を前に演奏。

帰山氏の作品発表会に出演。尺八・三味線と共に「生きる」を演奏。

■当時を語る 吉原三雄(当時マンドラリーダー「生きる」は私にとって、7度目の初演体験となりました。音楽にとって新作発表は永遠のテーマですよ        ね.....期待にこたえられる合奏団になりたいですよね。チルコロがチルコロであり続けるために.....。
(第30回記念定期演奏会パンフレットより)

日ソ協会主催のコンサートに出演

訪ソ、(団長 帰山栄治氏)、モスクワ、レニングラードで公演。演奏者60人モスクワ公演…ブゥダーシキン氏の未亡人と談話を交えた一時間のテレビ番組に出演。レニングラードナポリタンオーケストラとの交歓会.....お互いの演奏を披露したが親睦をはかる時間がなく残念。レニングラード公演… 雨のため、ダンスホールで演奏。客席数は160。聴衆は500名。超満員なのに休憩時 に席をはなれる人が少ない。最後に「ブラボー」と声をかけてくれた時は感激、演奏会をやってよかったとし

みじみおもった。

第30回記念定期演奏会(名古屋市芸術創造センター)
名古屋市青少年のための芸術劇場「マンドリンの仲間」開催(名古屋市民会館中ホール)

8月11日に南京市の人民劇場で南京民楽団と共演。
8月14日に北京市の民族文化宮ホールで中央民族楽団と共演。
8月16日帰国

名古屋市芸術祭'93に参加。南京民楽団を招待し、「南京の響き・名古屋の響き」と題し、合同演奏を行っ

た。(愛知県芸術センターコンサートホール)この時、帰山氏に中国の民族楽器とマンドリンの合奏曲

「雲霧林の声」を委嘱。帰山氏の指揮で合同演奏を行った。

第35回記念定期演奏会(名古屋市芸術創造センター)

マンドリンオーケストラ・アカシア と合同で「名古屋マンドリンオーケストラ」を結成し、オーストラリアに国際親善公演を行う。(参加人数100名)客演指揮に帰山栄治氏、ソリストに榊原喜三氏を迎えた。 帰山氏には親善のための合奏曲を委嘱。「Pacific'96」8月12日にキャッスルメインにて、チャリティーコンサートを行う。(キャッスルメインタウンホール)8月15日、場所をメルボルンに移し、メルボルンマンドリンオーケストラ、コンコーディアマンドリン・ギターアンサンブルとジョイントコンサートを行う。(メルボルンタウンホール)

メインの練習場を名古屋音楽プラザ(金山)に
第40回記念定期演奏会(しらかわホール)
名古屋市民芸術祭2001参加 第43回定期演奏会(名古屋市芸術創造センター)
第45回記念定期演奏会(名古屋市芸術創造センター)
創立40周年記念 第46回定期演奏会(名古屋市芸術創造センター)
第50回記念定期演奏会(名古屋市芸術創造センター)
1980年4月20日
1984年12月
1981年8月

1982年8月

1983年10月28日

1984年8月10日~16日

1979年7月

1978年11月12日

1964年 5月24日

1964年 6月 7日

1964年10月 4日
1973年7月

1969年5月20日  

1972年5月7日

1966年3月13日

2018年9月9日
第60回記念定期演奏会(名古屋市芸術創造センター)
2018年10月7日
​フェッロマンドリーの北九州第76回定期演奏会 ゲスト出演
2019年9月15日
創立55周年記念第61回定期演奏会 ゲスト:フェッロマンドリーノ北九州(名古屋市芸術創造センター)

第15回定期演奏会 (愛知文化講堂)

■当時を語る 深津 弘(長年ギターパートで活躍。第16回定演ではコンマスを務める
1970~1975年にかけては、技術顧問の帰山氏、指揮者の鶴原氏、事務局の矢島氏らの努力により、コンサート  で毎年のように創作委嘱作品・編曲初演曲を演奏するなど、非常に活発な活動を行いました。また1972~1975  年にかけては、中部地区で毎年マンドリンフェスティバルが開かれ、名古屋だけではなく、愛知、岐阜、三重、  静岡などからも数多くの合奏団が参加しました。チルコロも、もちろんこのフェスティバルに参加していました  が、40~50人のメンバーがおり、今のような40代は一人もおらず全て20代という若さ(もちろん私も)でチル  コロ自体が青春のかたまりのようなものでした。このフェスティバルでの私の記念すべき思い出は1975年の室内

フェスティバルにおいて、チルコロの代表として、ムニエルの「四重奏曲ハ長調」を演奏したことです。演奏会

 にゲストとして来ていただいた中野二郎先生から、「熱演だった」とほめられ非常に感激しました。(何しろ若

 かったものですから)演奏した4人のうち2人は、大阪、千葉と名古屋を離れましたが、私を含め2人(2ndの滝     氏)は、今もチルコロに在籍し、平均年齢を上げています。(第30回記念定期演奏会パンフレットより)

第20回定期演奏会 (名古屋市民会館中ホール)

■当時を語る 松永 豪(客演指揮者で登場、現常任指揮者)
それまでの私の音楽からは、マンドリン合奏団が初体験(一度だけ学生時代に同大の定演を聞いたことがある)であったため、音の異質さに驚いたものであった。また練習時の指揮者を無視するというのか、指揮の見方が訓練されていないと思った。....この2点は今もあまり変わっていなようだが......。(第30回記念定期演奏会パンフレットより)

bottom of page